哲学者の岩内章太郎さんとの「それでも生きていくための哲学」2回目は、リベラルな近代社会がこの社会の最小単位として設定した「個人」しかも「強い個人」について。
現代社会を生きる我々は、忙しさや生きづらさや不安・寂しさを紛らわすために常にスマホやSNSを通じて「誰か」(それはお気に入りのインフルエンサーやショート動画でも同じ)と過剰接続しアテンションの奪い合いの海を泳いでいる一方で、会社や学校にいけばそこはかとない全体主義的な同調圧力を感じながらそこで演じるべきペルソナを演じています。そしてまた、社会的決定だけでなく、個人の決定も短期的・短絡的で「解」に最も近いインスタントな決定を日々求められ、多様で変化に富むとされる社会への過剰適応を求められています。
外部とつながってる風で、役割もあるはずなのに、日々の決定に追われながらふと考えると「自分」がない。
そんな時代に、リベラルが措定した「強い個人」なんて可能なのか?可能であるとすれば、今の生身の自分(弱い個人?)はどうやってそこにいたるプロセスを見出せばいいのか。
また、非現実的な人間像の押し付けから取りこぼされた弱い生身の個人がポピュリズムなどを生んだ!という”リベラルの罪”として近年批判も多い「個人」概念が、昨今の参政党躍進や世界的なカウンターエリート現象とどのような関係にあるのかも読み解きたいと思います。
こんな時代だからこそ、哲学が必要だ!そう確信しています。
鬱陶しいことも多くて生きづらい、明日どうなるかもよくわからない日常だけど、「それでも生きていかねばならない」中で、「私」を取り戻すプロジェクトです。
私の中では、「それでも生きていくための」哲学は、クソだけでも素晴らしいだけでもない、クソ素晴らしき世界というモチーフのコインの表と裏なんですね。
さ、20時から、哲学の時間です!ぜひご覧ください。
ご視聴はコチラをクリック
↓




















